マイケルチェーホフの年表

  1891年8月16日セントペテルブルグで生まれ、マイケル・チェーホフ(洗礼名ミハイル・サンドロヴィッチ)は少年時代、とてもわがままで元気旺盛な性格であった。小作人であった乳母の影響で、様々なシアターゲームやごっこ遊びに夢中になった。1944年の自叙伝の記述によると、その当時のことをはっきりと覚えており、「私はこれだと思いついた服を手にとって身に着け、自分が何者であるかを感じた。衣装で、即興がシリアスになったりコミカルになったりした。私が何をしても、乳母の反応はいつも同じように、長い笛のようなに笑いながら涙をながすのだった。」

 1907年チェーホフはアレクシィ・スボーリン演劇学校に入学をし、そこで彼はとても秀でた喜劇の役をやってのけるのであった。

 3年後、21歳であったチェーホフはロシアで最古のマールイ劇場で、独り立ちした俳優であった。スタニスラフスキーはアントン・チェーホフの甥であった彼に個人的に関心を持ち、より有名なモスクワ芸術座でオーディションを受けるように勧めた。当時、モスクワ芸術座の名声は隆盛を極めていた。緊張で声を震わせた暗唱を行ってしまったが、マイケルチェーホフは舞台への入団が認められた。

 チェーホフは、モスクワ芸術劇場の実験的なファーストスタジオでアルメリアの天才ワフタンゴフの直接の指導下に置かれることになった。

 1912年から1913年にかけてチェーホフは主役や重要な脇役を演じ、12作品に及ぶモスクワ芸術劇場の興行に出演した。俳優として思想家としても彼の評判はこの時期に劇的に伸びた。しかしアルコール依存症、家族の死、過熱する戦争、革命、内戦によってもたらされた突発性のうつ病は、精神的な安定や演技をするための能力も蝕んでいった。そうであっても、ボリシェヴィキの勝利後の二年間はチェーホフの精神的、芸術的な発展において重要なものであった。

 スタニスラフスキーの内科医による最先端の心理療法以上に、ヒンズー教の哲学やとりわけルドルフ・シュタイナーの神智学との出会いがチェーホフの精神状態を変えた。シュタイナーの「スピリチュアル サイエンス」の熱心な研究は、危機に瀕していた空虚さを創造的な世界で満たしていった。

 1922年の中央ヨーロッパツアーまでシュタイナーとの出会うことはなかったが、ロシアの神智学の集まりや繰り返し持たれた交流は価値のあるものであった。特筆すべきことは、それが理想の演劇への考えを刺激したということである。スタニスラフスキーの内的真実と感情の深みと、シュタイナーの美とスピリチュアルな衝撃とを融合させることがチェーホフの並々ならぬ探求になっていた。

 1918年、演劇が盛んな地域であるモスクワのアバートに自身のスタジオを立ち上げた。何度かの試みの後、ようやく独自の方法を伝えるための初めての場所となった。1918年から1922年にかけて、秋に何百人もの生徒がオーディションを受け、各年30名が選ばれた。12月までには大体3人しか残らなかった。チェーホフは授業準備をすることはめったになかった。自身のスタジオの稽古では、役作りについての研究に重きが置かれていた。

 1921年の初め、チェーホフは、ワフタンゴフの暗い表現派の作品ヨハン・アウグスト・ストリンドベリの『エリク14世』に、主役として出演することになった。

 1923年、ワフタンゴフの早すぎる死、そしてモスクワ芸術座の西ヨーロッパとアメリカの大盛況となったツアーの後、スタニスラフスキーはチェーホフに第二モスクワスタジオを任せることにした。

 1927年までには、チェーホフはソビエトの文化では当時完全に禁止されていた、オイリュトミーの使用やルドルフ・シュタイナーの関心ために「観念主義者」や神秘主義者として批判されることとなった。

 1928年ドイツで公演するように演出家のマックス・ラインハルトから招待され、家族とともに移住する許可が下り、すぐにベルリンへと発たった。プロの俳優として、個人としても成功を収めた時期、「放浪の年月」となるチェーホフの第二のキャリアが始まったのだった。

 1928年の夏の終わり、ベルリンに到着したマイケル‣チェーホフは第二のキャリアを始め、その間には、中央、東、西ヨーロッパ中を亡命しまわった。落胆に満ちた7年の間、異国の地で、チェーホフは自分の劇団と俳優トレーニングメソッドを作ることに人生をかけて追い求め続けたのだった。

 1931年初めには、チェーホフはベルリンを去ることを考え始めた。小規模で現代衣裳を使ったハムレットの稽古を始めた。そのなかでは、フローディアスとガートルード、王と女王が独創的に演じられるのであった。プラハやパリで新しく創設されるロシア語の作品を公演する2つの劇場での演出家の職といった、いくつかの話もチェーホフに持ち掛けられた。しかしそのどれもが財政的な理由に頓挫した。パリには、ソビエト連邦以外で、ロシア語を話す人口が最も多かった。1931年春は、パリを活動拠点とした。

 パリでは、ロシアからの亡命者でボリシェビキ(ロシア共産党)の賛成派と反対派がともになって、チェーホフの劇場設立の計画に反対した。

マックス・ラインハルトの若き弟子であり、ドイツビューネパリの創始者ジョーゼット・ボーナーからの資金援助と制作技術を得て、チェーホフはついに自分自身の劇場「チェーホフ・ボーナースタジオ」を立ち上げた。

 1931年11月、チェーホフ演出・主演の神秘的なパントマイム芝居がこけら落し公演になった。作品は地元のパリの人や海外からの記者には好評であったが、大道具、裏方、劇の怪しげなテーマに関しての初日の公演で起きた問題は、普段から観劇をする人の評価の足かせとなった。またもチェーホフの夢は潰えてしまった。誹謗中傷に過敏になっていたチェーホフは、「未来の芝居」のために台本制作を試みることはもう二度となかった。この経験の後には、神智学は彼の人生と研究の個人的な興味になっていった。

 ボーナーと、チェーホフのロシア人の助手の一人であるビクトル・ブロモフは、1932年と1935年に独立共和国であるラトビアとリトアニアの国立劇場での職をチェーホフのためになんとか見つけた。バルト海周辺の諸国で外国人排斥ムードの高まりと、戦争とファシストのクーデターの脅威により、チェーホフとロシアの俳優は一時的に西ヨーロッパに戻ることとなった。そして興行師であったソル・ヒューロックの招待で、アメリカに行くことになった。

 ヒューロックによってチェーホフの団体は「モスクワ芸術俳優」と改名され、1935年の春にブロードウェイで1シーズン公演を行った。チェーホフの常人離れした役作りと、ロシアとソビエトの古典作品の演出はアメリカ人の知識階級の人たちを魅了した。ステラ・アドラー率いるグループシアターの一派は、不在であった演出の役割をチェーホフに頼もうとしていた。グループの願いから、1935年9月にチェーホフはテクニックに関しての実演を交えた講義を行った。

 モスクワ芸術俳優たちによるブロードウェイでの初演のとき、その舞台裏では、若い女優がチェーホフの注意を引こうとしていた。これがベアトリス・ストレイトである。チェーホフがついに見つけた感受性に富んだ才能豊かな俳優であった。彼女の友人であるディアドラ・ハーストとともに、ストレートはダーリントンホールにチェーホフを招いた。イギリスのデボンシャーにある、そこは彼女の家族の所有地であり、革新的な教育機関であった。   

 1936年に農業、音楽、手工芸事業、モダンダンスといった実験的なプロジェクトの中、チェーホフはそこを新しい演劇の地として選んだ。ダーリントンのユートピアともいえるそのコミュニティで、チェーホフ、ストレート、ハーストの三人で、チェーホフテクニックを学ぶインストラクターと生徒を応募し、24人に及ぶ若き俳優たちは、チェーホフが25年も描いた夢「チェーホフシアタースタジオ」のはじめての生徒となった。そこでのトレーニングは二年間に及び、徹底されたもので、綿密に作られていた。

 ダーティントンでの月日(1936-1939)は、志が高く情熱をもった教師陣や生徒にとって創造性豊かで幸福な期間であった。1939年にはイギリスでのドイツとの戦争の気運によって、イギリスでの活動をやめて、大西洋をこえニューヨークからさほど離れていない、コネチカット、リッジフィールドの田舎の共同体に場所を移すことになった。

 1939年、リッジフィールドスタジオでの田園的な環境はダーティントンホールと似ていたが、ニューヨークの劇場と目と鼻の先であるという状況によって、自分のスクールや指導に関しての考えを変えることになった。1940年から1942年にかけて、評価を高く受けることになる古典作品と喜劇の大掛かりな長期の公演を三回行った。レパートリーを行いながら若手の役者はニューヨークの市内、ニューイングランド、アメリカ中西部や、南端までツアーをして回ったのである。

 1920年代、1930年代のかつて隆盛した巡業公演ぶりに、公演予定に組まれていた多くの町では、その真剣で臨場感あふれる芝居は楽しまれた。その素晴らしい出来の演劇はほとんどすべての郡や市の新聞に取り上げられた。若手で活躍していたユリ・ブリナーはリア王のスタジオ公演に出演をした。才能あふれる俳優の中にはフォード・レイニーをはじめ、ハード・ハットフィールド、ベアトリス・ストレイトがいた。プロの俳優のために特別講座で教えるために、スタジオをニューヨークへと移すことにしました。

 1941年秋、2つ目となるチェーホフシアタースタジオをニューヨークの56番通りに立ち上げた。

 1942年秋、チェーホフシアタースタジオは解散する。それはスタジオの若い俳優を徴兵で連れていかれたためと、膨れ上がる財政的な問題のためであった。妻ゼニアとともにロスアンゼルスに移り住み、アメリカ映画での新たなキャリアを築くことにしたのだった。

 1934年から1954年にかけて、チェーホフは9本のハリウッド映画に出演した。アルフレッド・ヒッチコックの『白い恐怖』では精神分析医を演じ、チェーホフはアカデミー賞の受賞候補になり、そこでチェーホフはハリウッドの若手役者に自身のテクニックを教えることを再開したのであった。マリリン・モンロー、ジャック・パランス、アンソニー・クイン、マラ・パワーズ、ジョン・デナー、ジョン・アボット、エイキム・タミロフはその生徒の中核のメンバーであった。

 1955年9月30日、65歳のチェーホフは、ビバリーヒルズの自宅で心不全のため、その生涯に幕を閉じたのだった。

 

【参考資料】

On the Technique of Acting” by Michael Chekhov   Harper Perennial; Illustrated edition (November 1, 1993)

 

Michael Chekhov  Tokyo

マイケルチェーホフ東京 

 

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秋江智文

 

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